文章生成AIと向き合わなければ、ライティングの仕事で生き残れない気がする

ライティングを生業とする以上、文章生成AIと向き合うときがきた。

長年の習慣によって染みついた行動や思考の癖は、時間をかけなければ、なかなか直せないからだ。
とくに価値観は、経験が土台になっている分、相当な衝撃がなければ変わらないだろう。
自尊心を保つために必要な価値観だが、意固地な私も「どうにかして変えられないものか」と思っている。

人に対する先入観、想定外の出来事が発生したときに動揺する器の小ささ、自己流に固執する仕事のやり方など、現状維持が退廃につながる恐れがあるからだ。
「これまでうまく生きてこられたのだから正しい」と考えるのは、所詮原因と結果を一面からしか見ていない。
自分の立ち位置を理解しつつ、現実と向き合う努力がなければ後悔するに違いない。

コタツ記事を書くライターはいらない

「文章生成AIを多用することで考える機会が失われ、判断力のないまま多用すれば馬鹿になる」との考えは変わらない。
そうは言っても、文章生成AIが急速に進化している現実が訪れている。

人が書いた文章と遜色なく、悔しいことに読み比べても区別がつかない。
ターゲットの気持ちに訴えかける文章ならともかく、要約、解説、分析において、生成AIの方が優れているのではないか。
もっともらしく書かれた曖昧な嘘を見抜ければ、コタツ記事を書くライターはいらないような気がしてきた。

事前準備の壁打ち相手として

浅く広く書けるよりも、特定の分野に強いライターが求められていると思う。
それでも業務上、守備範囲の広いポジションで戦わざるを得ない場合、文章生成AIから逃げていることはマイナスにしかならない。

大事な点は、読者にとって価値ある情報をわかりやすく届けることだ。
取材する事前準備の壁打ち相手として、SEOの最適化を図るヒントとして、文章生成AIが役に立つはずだ。

プロンプトとして、テーマと条件を設定して、記事を丸ごと生成するつもりはない。
上手に書かれた文章からファクトチェックできる自信がない。
文章生成AIに頼ることが癖になれば、個性やこだわりを捨てる恐れがある。

そう考えること自体が前時代的なのだろう。
使い慣れることで見えてくるものもある。長所と短所が実感できてこそ、賛否も語れる。
食わず嫌いのままでいられない状況は、もう目の前に来ている。