やる気があっても書けない理由~手段が目的になっているかも~

2024年5月11日

ぱくたそ[ https://www.pakutaso.com ]

「毎日投稿して、ライティングスキルを磨くぞ」

そう意気込んでみたものの、すぐに断念する挫折ことが何度もあった。始めから、書くことが目的なので、パソコンの前に座る時間だけが増える。ひねり出した結果、日記みたいな(しかも短い)記事ができあがる。

 

自分でも無理やり書いていることが分かっているので、「これでいいのかな」と思ってしまう。喜びも、達成感もない。翌日、パソコンの電源を入れて、何を書こうか悩むところから始める。かなりの苦行だ。

 

日常で感じたことを書けばいいのに書けない。ライティングスキルの問題ではなく、自分の気持ちを言語化できていないことが問題なのだ。

 

素材があれば書けるのに

業界紙記者として働いた頃は、事実に基づいて書くことが仕事だった。

取材や資料から得た情報があるため、素材は豊富にある。伝え方の順番、無駄を削ぐ調理の仕方が勝負だ。

 

新聞の発行ペースは、とてもゆるやかだったが、書くことばかりに時間を割けない。

紙面スペースに合わせて、文字数、見出しの本数、写真・図表の点数を考え、おおよその作成時間を自分のなかで想定する。

 

個人的には、書き出しさえ決まれば、比較的悩まずに書けた。

自分なりの流れができあがっているからだろう。決して良い意味ではなく、汗をかかない、手垢にまみれた悪習慣から脱することができていない証拠だ。

 

外部から収穫した素材があるので、書きやすいことは間違いない。業界紙歴が長くなれば、得意分野もつくれる。ただ、いつまで経っても自由なテーマで書くコラムに苦労した。

 

読み応えのあるコラム

明鏡国語辞典(第三刷)によれば、コラムとは

【column】(名)新聞・雑誌などで、短い評論などを載せる囲みの欄。また、その囲み記事。「―ニスト(=コラム記事の執筆者・担当者)

という意味らしい。

 

私の感覚では、小田嶋隆氏が記したような

コラムは、むしろ、新聞という枠組みの外部に位置している。

その意味で、コラムは「異端」の原稿であり、「枠外」の存在であり、常識の「埒外」にある制作物ということになる。あるいは「アウト・オブ・ベース」(←基地外ね)であり「外道」であり「インフィデル」(異教徒的)かつ「アウトロー」(法外)な「隔離された」記事であると。

出所:「小田嶋隆のコラムの向こう側」(ミシマ社)

のイメージで書いている。

 

定型文なしの自由なスペースは、私のようなルール絶対主義には、かえって窮屈だ。

反対に、コラムを書くことが苦にならない人もいる。「15分で書いた」というコラムは、過去の体験を踏まえたもので、一般論に終始する私の記事よりも読み応えがあった。

 

言語化する経験の差

体験による刺激の強さ、モノの見方、感性、語彙力が圧倒的な差になっていることが間違いない。

それ以上に、自分の気持ちを言語化する経験の量が違うような気がする。

 

日頃感じている不満、悩み、気付き、学びには、必ず原因(きっかけ)と結果(行動)がある。

その両点を結びつける習慣ができれば、書くハードルは確実に下がる。

 

最近、ブログを書くのがほんの少しだけ楽しくなってきた。

「仕事じゃないから」といえば、それまでだが、考えを言語化することに面白みを感じているからかもしれない。