年齢はただの数字ではないような気がする~労力と対価をどう考える~

「年齢なんて気にしない。ただの数字」

前向きな考え方で見習いたいところだが、なかなかそういう気持ちになれない。

 

35歳を超えたあたりから、寿命を意識するようになった。
動ける時間は限られている。
だからこそ無駄な時間は過ごしたくない。

 

取捨選択できる権利は、自身にあるはずなのに、組織のしがらみから抜け出せないことが多々ある。

吹奏楽もそうだ。

もう30年近くやっているので、「長く続けてすごいですね」と言われてるが、たんなる惰性だ。

 

立場も、責任もある分、辞めたときに教えてきた人たちに与える影響を考えると、なかなか踏み出せない。

達成感や喜びも時々あるが、全体から見れば、ほんの一瞬。

かけている労力と時間に比べて、十分な対価を得られているのだろうか。

はなはだ疑問である。

 

こういったことを考えること自体、まわりに対する冒涜のような気もするが、せめてプライベートぐらいは楽しさを重視してもいいはずだ。

 

気軽に誘えない

 

組織による強制力は、想像以上に大きい。

 

長く続ければ続けるほど、大きくなることが分かっているので、他人を気軽に誘えなくなっている。

 

以前の自分なら、「まず始めて、嫌だったら辞めたらいいんだよ」と言っていたはずだが、現実世界はそう甘くない。

それなりに人間関係もできる。

思い出ができる。

まわりが頑張っている姿を見て、「辞めたら迷惑をかけるよな」と考えてしまう。

 

そう思うと、よっぽどのことがない限り辞められないのが人情というものだろう。

 

臆病になっている

選択時の熟慮は、物事に対して臆病になりやすい。
そういう状況に陥っている。

すぐに労力と時間、得られる対価を考えてしまう。

ひどく打算的だ。

 

やってみないと分からないことがあるのは理解しているつもりだが、すぐに自身の経験と照らし合わせて「無駄かもな…」と思ってしまう。

挑戦の気概がない。

これは機会損失どころか、時間の浪費につながっているのかもしれない。

 

時間、労力、気持ち、お金など、何も消費せずに得ようとするのは、虫が良すぎる。

これまでやってきたことで、直接的に役に立っていないことでも、間接的に見れば活きていることも多いはずだ。

 

選択して決断することには、必ずリスクが伴う。

そのことを意識するようになっただけでも、大人として成長している。

定年も延びるだろうし、会社員人生は残り30年はあるだろう。

気持ちは焦るばかりだ。