夏目漱石から始めました

2021年10月31日

大学卒業以来、十数年ぶりに「近代文学」を読み始めました。

社会人になってから、手に取るのはビジネス本とノンフィクションがほとんど…。

小説は、城山三郎、高杉良に代表される経済小説か、山岡荘八や吉川英治が書いた歴史小説ぐらいです。

インプットとして読書の重要性を痛感していながらも、小説から遠ざかっていたのは、刺激のある娯楽として動画に時間を消費しているからです。

そのような状況を脱するきっかけは、近藤康太郎氏が書いた『三行で撃つ』でした。

ライターにとっての「書く」は、広い意味で「読む」も含まれている。書くことと読むことは、引き手と押し手だ。水面下でボートのオールを力いっぱい漕ぎ、水面から出して空中を返翼する。つねに一体になっている。書くこととは、すなわち読むことでもある。

として、課題図書の一つに日本文学を挙げています。

日本文学のなかでも、近藤氏が薦めているのは明治から昭和くらいまでの「亡くなってすでに数十年経った作家」の作品です。

契約書に書かれた内容が分かるだけの人ではなく、「表現者」として生きていくためには、日本文学を手に取る必要があるそうです。

まず「三部作」から

さっそく実践すべく、最初に購入したのは夏目漱石の『三四郎』(新潮社発行)です。

三部作として有名な作品ながら、まだ読んだことがありませんでした。

主人公は、東京帝国大学入学のために九州から上京した三四郎。学問、友情、恋愛の不安や戸惑いを抱く物語です。

初めて出会うタイプの人たちに触発を受けながらも、終始状況に流されている受け身の姿勢が印象的でした。

景色や内面の描写を通じて、「記事を書くうえでのヒントになれば」と読んだものの、情緒的な表現をじっくり読めないことを痛感しました。

近藤氏が提唱するように1日15分読む。これが中々難しい。

(恥ずかしながら、漢字の読み方で一瞬止まることもしばしば…)

大げさに言うなら、書くことだけでなく、読むのも慣れが必要ということでしょうか。

はっきりとした感想も書けませんが、新聞に対する考え方を記した箇所があったので、最後に紹介して締めたいと思います。

現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄(きりすて)る習慣である。切棄てなければならない程世間が切迫しているのだから仕方がない。その証拠には新聞を見ると分る。新聞の社会記事は十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである。

読書

Posted by guzumoti