文章表現へのこだわりは不要なものである
新聞記事で最も大切なのは、分かりやすく端的に伝えることだ。凝った言い回しや、無駄な飾りはいらない。文章表現に対する自分なりのこだわりも、不要なものだと言えるだろう。
現在の職場では、私が書いた文章がそのまま紙面に載ることはない。必ず「デスク(原稿をチェックして仕上げる上司)」の手が入るからだ。
それは単なる誤字脱字のチェックではない。内容に分かりにくいところはないか、ニュースとしての具体性はあるか、表現が長すぎていないか。紙面のスペースに合わせた調整だけでなく、読者にとっての読みやすさを考えて修正しているのだと思う。
「だと思う」と書いたのは、修正に明確なルールがあるわけではないからだ。 最後はチェックする人の好みで判断されるため、指摘された内容にすぐ納得できないこともある。
同じ言葉を繰り返さないように気をつけて書いても、別の言葉に書き直される。段落を分けることで内容の区切りを示しているのに、わざわざ接続詞の「また」を書き足される。こうしたことは、日常茶飯事だ。
これまでは書いた文章がほぼそのまま掲載されてきた私にとって、この状況にはまだモヤモヤした気持ちが残っている。掲載前には必ずデスクから連絡があり、こちらの意図を伝えれば配慮もしてくれる。
それでも、内容の根幹に関わらないような細かい修正が続くと、文章にこだわっている自分が馬鹿らしくなることがある。「一文は短く、リズム良く」が正解だと信じて書いてきたが、修正によって無理やり文章をつなげられたと感じることもある。
もちろん言い返したい気持ちはある。だが、それを実行しても時間の無駄になるだけだ。「面倒くさい奴」だと思われて、仕事がやりづらくなるデメリットの方が大きい。
そもそも、記事の著作権は新聞社にある。読者も「誰が書いたか」より「何が書かれているか」を重要視している。
つまり、私のこだわりは単なる「自己満足」に過ぎないということだ。こうして葛藤していること自体、まだプロとしての学ぶ姿勢が足りないのかもしれない。








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