自己解析が進む、一言で終わらせない「難しい」理由の言語化

物事が思いどおりに進まない。理由を話すとき、つい「難しい」と言ってしまう。
そう簡単な話でもないのに、その一言で終わらせてしまう。もっと複雑な訳があるはず。しかし、自己の胸中を深掘りすることなく終わる。

明鏡国語辞典(第三版)によれば、「難しい」には

  1. 事態を処理したり、実現したりすることが容易ないさま。困難だ。
  2. 複雑で容易には理解できないさま。難解だ。
  3. 少しでも処置を誤ると最悪の状態に陥るおそれもあるさま。
  4. 深刻に考えたり不機嫌になったりして、こわばった表情をしているさま。きむずかしい。
  5. 機嫌を損ねやすかったり要求が多かったりして、普通の接し方ですませそうにないさま。気むずかしい。

との意味がある。汎用性の高い言葉だ。
便利な分、自分と向き合って言語化する機会を失っている気がする。

物事が進まない理由は、高い目標設定に対して準備が足りなかったのかもしれない。
それとも優先度が少しずつ低くなり、時間、お金、労力を割くのが惜しくなったことも考えられる。
取り組む中で得られる成果が、将来の目標に直結しないことに薄っすらと気付いてしまったこともあるだろう。

「立場上、やむなく取り組むことになった」も付け加えておきたい。

どれも心当たりしかない。耳の痛いことばかりだ。それゆえに、次のチャレンジに生かせる要素とも捉えられる。

理由をきちんと言語化しようとすると、他人からすれば「単なる言い訳」と受け取られかねない懸念もある。
だから、なんとなくおさまりが良い「難しい」で終わらせてしまうのではないか。

お互いに物事の背景が分かっている間柄の会話で、理解と共感を確認するために「難しい」を使うことは、会話をより円滑にする。
それが癖になってしまい、内省でも「難しい」で片付けてしまうのは、反省や改善がなさすぎる。

口癖になっている言葉こそ見直していきたいものだ。