「察しろ」「上手いことやれ」に対する答え~考えを深める言語化~
35歳を過ぎたあたりから、自分の考えを言語化するように努力している。頭のなかで思っていることを文章にする。他人に理解してもらえるレベルまで考えを昇華させて伝える。少なからず練りこむ作業があってこそ、言語化が成立する。
そう思うのは、組織活動にありがちな「察しろ」文化に対する反骨精神が根底にある。上司から「あれだよ!わかるだろ!」「えっ!なんで分からないんだよ!察しろよ」と言われるパターンだ。
「あれ」の選択肢が多すぎて、ちょっとしたクイズ大会になる。しかも、ノーヒントだ。私の正答率が低いのは、察する力が足りないこともあるだろうが、上司にも責任はある。思い出したり、説明したりする労力を惜しんでいるからだ。
察することを求められすぎた結果、言語化することにこだわる境地に達した。この背景には、「上手いことやれよ」文化という似たような現象があることも明記しておきたい。
言葉にする手間
以前の職場で「上手いことやれよ」が口癖の上司がいた。アドバイスを求めても、トラブルが発生したときも、出てくる言葉は同じである。具体的な回答を欲しても、「そこを何とかするのが、お前の仕事だろ」と言われる。
そう言われたら、当事者である私は引き下がるしかない。自力で解決することで分かることも、自責思考が成長につながることもある。そう思う一方で、ひねくれている私は「アドバイスするのが面倒なのでは…」「解決方法がないだけでは…」と、心のシャッターを半分ぐらい閉ざすようになった。
直接的な解決にならなくても、事情を聞き、体験を通じて伝えられるものはあるはずだ。その労力を惜しむようであれば、業務を放棄しているようなものではないか。情報と体験を関連づけて助言するのは、年齢に関係なく、家庭や学校でもやってきたはずなので、言葉にして伝える手間が惜しいだけなのだろう。
相手の時間を奪っている
言語化するときには、
・用件(目的)
・結論(自分のなかで考えていること)
・理由(なぜそう思ったのか)
を意識して伝えている。
当たり前すぎて、「わざわざブログで書くことかな…」と思ってしまうぐらいの基準だ。
もう一つは、こそあど言葉を使わないこと。「これ」「それ」「あれ」「どれ」と言われても、結局聞き返すはめになることが多い。便利なので、ついつい多用してしまいがちだが、思い出したり、確認したり、調べたりする力が衰えていくような気がする。
文章でも、会話でも、相手の時間を奪っていることも自覚しなければならない。冗長な文章は、読むだけでも時間がかかる。長々と話されても困る。私も年に2回は「それで結論は?」とあきれた感じで言われる。
この記事に対しても、読者に「何が言いたいんだ?」と思われることだろう。伝える努力が言語化であると言いながらも、まったく実現できていない。ただ、こだわる姿勢だけは持ち続けるだけでも、自己肯定感はある程度保てると思う。
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